社会不適合の贖罪

全ての嘘が、いつか赦されることを願って。

社会不適合者の断罪1

飼い猫の首を、絞めたことがあります。

それは、精神疾患を告知された中学2年生の頃です。

この世の全てがどうでもいい、そう感じていたことをはっきりと覚えています。

 

それから10年近くが経ち、私は“変われた”と、

思っていました。

けれど今また、私は飼い猫の首に手をかけたくて、堪りません。

 

 

この人生、私は私に関わる全ての人に、嘘をついていることがひとつあります。

それは、“私は解離性障害では無い”ということです。

中学2年生の時、私は解離性障害、所謂多重人格と診断され、今でもその病名を抱えています。

しかし、全ては嘘です。

私の多重人格、乖離症状は、全てが演技でした。

 

初めて親の前で演じたのは、小学6年生の夏です。

元々私は、仮面ライダー電王の大好きな小学生でした。

同級生からのいじめ、友達のいない日々、それから目を背けるように、私は、ひとりぼっちの帰り道、“電王ごっこ”をしていました。

自分の中にはイマジンがいて、私は一人では無いのだと、現実から逃げていました。

勿論、私の中にはイマジンも、他の人格もありません。ただの演技です。

私自身と、私が演じるイマジン達とで会話をしていると、一人で学校から帰る惨めさを紛らわす事ができました。

当時は、あくまでも私だけの秘密の遊び。

それを他人の前で披露するなんて、考えもしませんでした。

 

その行為以外にも、私は自分を満たす行為を知っていました。

自慰行為です。

まだ小4の頃だったでしょうか、随分と物を知るのが早かったと自分でも思います。

本格的なものではなく、ただ下着の上から局部をこすると、満たされる気持ちになりました。

当時はその行為の名前も意味も知りませんでしたが、ただ、“人には言ってはいけないこと”だという事だけを理解していました。

 

小学6年生の頃には、家にある電気マッサージ器を使うようになったり、大衆浴場のジェットなど、私は好奇心のまま自分の満たされない何かを毎日毎日満たすことに必死でした。

 

その日は、3歳下、小学3年生の妹の、親子行事の日でした。親と子で身体を動かし、親睦を深める、そんな学校の行事です。

私は妹が嫌いでした。

嫌いと言うと違うかもしれません。ただただ、妬ましかった。

私は自分で言うのもなんですが、神童レベルの優秀な子供でした。成績は常に学年一位、先生からも期待され、学級委員を毎年務めるほどに。

神童エピソードもありますが、身バレするのでここではしないでおきます。

そんな私は、過度な親からの期待を背負っていました。

テストで99点を取れば、“こんなケアレスミスをしなければ100点だった”と怒られる。

成績表でいくらAがあっても、“この項目が前回はAだったのにBになっているではないか”と怒られる。

 

小学3年生までは、私の中で褒められない事は当たり前でした。

しかし、妹が小学生になって私の心は崩壊しました。妹は、Cだらけの成績表を誇らしげに、親に見せました。

親は、“頑張ったね”“凄いね”と、妹を褒めました。それからも、妹がどんなに酷い成績を取っても、親は褒め続けました。

私は、妹が妬ましかった。憎かった。

今となれば、妹は出来が悪く、私は出来が良かったから、その扱いに差が出た事や、平等に愛されていた事を、頭では理解出来ます。

けれど、当時の私は、とにかく妹が嫌いで、どれだけ頑張っても認められない事への悔しさを、大切な妹の前で表に出さないことに必死でした。

 

妹の親子行事の前日も、その行き場の無い感情を、自分の身体を慰めることで、満たしていました。

 

朝目が覚めると、足はガクガクでした。理由は明確、自慰行為をしすぎたせいです。

我ながら馬鹿だと思いました。けれど、私は曲がりなりにも神童。

これを利用しない選択肢は、あの日の私にはありませんでした。

 

「ママ、足の震えが止まらないの。怖いよ、病院連れてって。」

最大限、演じました。只事では無いように。

 

母は、妹の親子行事を休み、私を病院に連れて行きました。

なんとも言えない快感でした。

一人電王ごっこでも、自慰行為でも満たされなかった何かが、私の中に満たされていきました。

 

分かりやすい、親からの、愛。

心配してもらうこと。妹より私を優先してくれること。

 

この日から、満たされる為の、嘘つきの人生が始まったのです。